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山田顕義 ~用兵の天才から法典伯へ

塾生の頃の写真って無いから描きにくいでしょうが… 家柄の良さはビミョーに出てるような気がしないでもない

2012年の松陰神社の特大絵馬、辰年の門下生として取り上げられたのは山田顕義(やまだあきよし)。地元萩でさえ知名度が高いとは言えない彼なのに、今年は正月2日にTBS系で豪華キャストによるドラマ「知られざる幕末の志士 山田顕義物語」(”知られざる”って言っちゃってるあたりが…)も放送された。なぜだか知らないが、今までにない顕義オシに期待が膨らむ。

 

ところが、ドラマでは「さて今から活躍↑↑」って頃から一気に晩年の日大創設にワープ(?!) 天才と言われた戦いぶりも心血を注いだ法典編纂もバッサリ切られ、結局活躍らしい活躍を見ないままに終わってしまった。
仕方ないので「山田涼介くんファンに顕義の名を知ってもらえただけでもすごいじゃないか!」と自らを納得させつつ、ドラマになかった部分をここでご紹介したい。(略伝については 山田顕義誕生地に掲載)

そもそもこの山田市之允(いちのじょう・後の顕義)、子供の頃はえらく出来の悪い子だったらしく、萩藩大組士102石、叔父に兵学者・山田亦介をもつ家の跡継ぎでありながら「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」というからひどい。子供時代のエピソードも、庭の木から小便をしたら母親に命中してしまったとか、塾の帰りに遊んでいたら武士の魂である刀を忘れてほいほい帰ったとか、はなはだトホホなものばかり。
そんな彼を心配した父・七兵衛が松下村塾へ通わせたようだが、当時罪人として謹慎の身であった松陰のもとへ通うことを親の方から勧めるなんて、いわゆるショック療法?だろうか。いずれにせよ、このことが市之允の将来を大きく左右することになるわけである(このへんがドラマになってました)。
師である松陰の死後、倒幕の志士として常に戦いの前線に身を置いた市之允だが、その中で彼は軍事的才能を開花させる。高杉晋作が亡くなる前「奇兵隊を引き継ぐ人物は?」と問われて名を挙げたのが、軍神・大村益次郎の次に山田市之允であったというのはご存じの方もおられるのではないだろうか。箱館戦では24歳で新政府軍の陸海軍参謀として戦場に立ち、「用兵の妙、神の如し」「神算鬼謀の将」と称えられた。
しかし維新後、明治4年に岩倉使節団に随行したことが彼の進む先を大きく転換させた。欧米諸国に文明国と認めてもらえない日本の現状、そして外国からのさらなる支配の危機。顕義は国際社会に認められる日本になるためには憲法制定法典の編纂が急務だと痛感した。そして帰国後、国を守るためには軍よりも日本の国体をふまえた法と教育が必要だと訴えた。顕義は明治22年自ら日本法律学校を創立、次いで翌年國學院を設立するなど教育に心を砕き、また法典編纂においては寝食を忘れて没頭した。そのときは政治的な論争に破れ実施をみなかった顕義の法典は、各国の法学者から高い支持を得、日本の国際化に寄与した。顕義が自らの命を縮めてまで編んだ法典の精神は、現在の法律の中にも引き継がれている。

48年の生涯で後世に残してくれたものは計り知れない。

 

―とまぁ偉そうに語ったが、手持ちの資料を基にした受け売り×付焼刃であることを白状しておく(なので色々お粗末な点は御免ナサイ)。主に「萩ものがたり12『山田顕義』秋山香乃著」を参照したので、ちょっとでも興味が湧いた方はぜひ読んでみて。そんな自分は、今度は「五稜郭を落とした男」(同じく秋山香乃著)を読んでみようと思っている。

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