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品川弥二郎誕生地

弥二郎誕生地の石碑。ど真ん中の亀裂がちょっと哀しい・・・

■品川弥二郎
生没年:天保14年~明治33年(1843~1900)
誕生地:長門国萩松本村
墓 所:京都市東山(霊山護国神社)、萩市椿東船津(明安寺)
別 名:日孜(諱)、省吾(通称)、橋本八郎、松本清熊など




 足軽・八市右衛門の長男として生まれ、安政4年(1857)に松下村塾に入門。文久3年(1863)七卿を擁して長州へ落ち、翌年禁門の変に戦ったが敗走した。慶應3年(1867)倒幕の勅命を奉じ山口に帰参。明治3年(1870)渡欧、帰国後は産業組合結成に尽力した。同24年内務大臣となったが、翌年第二回総選挙に選挙干渉し、辞職した。明治33年、肺炎のため死去。享年58。

 

  彼にまつわるエピソードでは、松下村塾を増築するときの話が有名。弥二郎が誤って松陰の顔に壁土を落としてしまい皆がヒヤリとしたところを、松陰が「弥二、師の顔に泥を塗るとはこのことか」と冗談を言って一同を笑わせたという、松陰の人柄や当時の塾の雰囲気を伝える逸話だ。また、鳥羽伏見の戦いの際にトコトンヤレ節という官軍のテーマソングを作って流行らせたのもこの人。これが日本初の軍歌であり、流行歌だと言われている。 

 吉田松陰には「情有る人」「弥二は人物を以て勝る」など、特に人格面で高く評価され、可愛がられていた。明治20年には松陰の遺志を継いで、幕末に斃れた志士たちを祀り遺品等を展示する尊攘堂(現 京都大学構内)を建造、その後も藩主の茶室を保存のため移築する(花江茶亭、花月楼)など、松陰や同志たちの顕彰と、藩政時代の建造物の保存にも力を注いでいる。

 

  塾生の中心人物でありながらドラマや小説であまり目立たないせいか、それとも『やじ』というほのぼの系ニックネームのせいか、個人的にはなんとなく過激なイメージがなかった。が、攘夷血盟、横浜外国公使襲撃計画から八幡隊、御楯隊と、実は攘夷運動には常に、しかもかなり濃厚に関わっている。筋金入りの勤王芸者であり祇園一の美貌を誇ったといわれる中西君尾が惚れたんだし、やっぱりけっこう骨っぽい男だったのだろうか。

 

川沿いの道路から見た誕生地。手前中央が石碑。

 誕生地は松下村塾からそう遠くない。松本橋手前を川沿いに左折してまもなくの所で、場所はわかりやすいが、気をつけないと見逃してしまう。「船津こども遊園地」(…って、ちっちゃいすべり台があるだけ・笑)の一角、大きなモチノキが目印。

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