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山田顕義誕生地・顕義園(けんぎえん)

立派に整備され、園内には日大からの立碑や植樹が並ぶ

■山田顕義(やまだ・あきよし)
生没年:天保15年~明治25年
(1844~1892)
誕生地:長門国萩椿号東分村
墓 所:東京都文京区(護国寺)
別 名:市之允(通称)、顕孝(諱)のち顕義、空斎(号)

 

 

長州藩士・山田七兵衛顕行の長男として生まれる。松下村塾で学び、倒幕の志士として禁門の変、馬関戦争、功山寺挙兵などに参戦。戊辰戦争では新政府軍参謀として転戦、箱館五稜郭を陥落させた。明治2年(1869)兵部大丞に就任、同4年岩倉使節団に理事官として随行し欧米諸国を視察、同6年帰国後に司法大輔などを務めた。佐賀の乱、西南戦争では反乱士族を鎮圧。明治16年に司法郷、同18年に第1次伊藤内閣にて初代司法大臣となり、法治国家建設のため尽力。教育を重視し、明治22年(1889)日本大学の前身である日本法律学校(現日本大学)を創設、翌年には國學院(現國學院大学)を設立した。明治25年、生野銀山にて急逝。享年48歳。

 

山田顕義の誕生地は昭和54年(1979)、日本大学建学90周年(なぜに90年?)を記念して公園として整備され「顕義園」(けんぎえん)と名付けられた。73平方メートルの敷地の正面には、1.1メートルの台座の上に2.4メートル、ひげを蓄え堂々とした「山田顕義先生像」が立っている。顕義については写真もいくつか見たがなかなか立派な風貌に見える。しかし実際は身長150㎝前後と小柄で童顔だったそうだし、年齢も考えるとちょっと風格がありすぎかも。

晩年は高杉晋作や久坂玄瑞など、幕末の同志らを思い起こすことが多かったそうだが、そんな顕義が最後に帰郷したのは明治25年、旧藩主毛利敬親の銅像起工式出席と維新の戦いに斃れた師友同志の慰霊のためとされている。この帰郷の際、山口・湯田にある周布政之助の終焉地周辺の整備を指示したり、品川弥二郎らと組織した御楯隊の駐屯地であった防府・三田尻の桑山招魂場に碑を建てさせている。
そしてその帰り、若くして自刃した又従兄の河上弥市らを祀る兵庫県生野の山口護国神社に墓所の修繕と立碑のため向かったが、そこで銀山視察の最中に突然倒れ、帰らぬ人となった。当時は病死と報じられたが、担当した医師が随分あとになって事故死だったと告白しているらしい。さらに昭和63年に日大によってなされた調査によると、顕義の頭蓋骨に刃物で突いたような骨折痕が見つかったという。彼の死の真相は未だ謎に包まれている。

 

山田顕義誕生地へは県道11号から「東光寺入口」の信号を東光寺方向へ、民家の間を左に入って細い道を進むと小さな橋がある。橋を渡ってすぐ左手。すこし奥まっていて、落ち着いたところである。

 

 

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