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木戸孝允(桂小五郎)

さて、2013年が始まりましたが、今年も恒例のこちらからご紹介。

松陰神社の特大絵馬・巳年の年男はこの人←

てなわけで、今年は木戸孝允

木戸孝允は、幕末から明治にかけて活躍した志士・政治家で、西郷隆盛・大久保利通と共に「維新の三傑」のひとりに数えられる。維新の志士としては桂小五郎の名で有名、後に変名して木戸孝允となった。どちらの名前でも活躍したため別人だと思っている方も多いようで、同一人物だと言うと「え~そうだったの!」という反応がけっこう見られる。時代ものでよく出るからか、一般的には『維新の三傑・木戸孝允』より『志士・桂小五郎』の方が親しみがあるようだ。

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天保4年(1833)、藩医・和田昌景(わだしょうけい)の長男として萩の呉服町に生まれ、8歳の時、近所の萩藩士・桂九郎兵衛(かつらくろべえ)に養子入りして武士の身分となる。17歳の時、藩校明倫館で吉田松陰に学んだことから松陰との師弟関係が始まるが、以後3つ年上の松陰との間柄は師弟を超えた信頼関係で結ばれていく。のちに松陰が開くことになる松下村塾の塾生とも親交を深めている。

20歳で江戸の名門道場・練兵館に入門し、1年足らずで塾頭となる。江戸遊学中は剣術だけでなく積極的に最新の学問を学び他藩士とも交流して、時局を見極める目を養った。松陰の推薦もあって藩に登用され、以降長州藩の中心人物として、公家や他藩との折衝に活躍する。

彼の業績でもっとも有名なのは、慶応2年(1866)、第二次長州征伐を前に、対立していた薩摩藩の西郷隆盛らと面会し同盟を結んだ『薩長同盟』だろう。坂本龍馬を仲介に成立した、薩摩と長州の両藩が幕府に対抗して協力することを約束した盟約は、倒幕への大きな転機となった。

明治維新後の新政府では参与・参議となり、版籍奉還廃藩置県を実現させた。明治10年(1877)、西南の役の途中で病没。享年45歳。

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◆逃げの小五郎
多くの長州藩の同士達が過激な攘夷運動に身を投じるなか理性的に行動し、池田屋事件(1864)や禁門の変(同)など多くの長州志士が命を落とした際も危機を脱した。また、禁門の変で惨敗し責任者が次々切腹・処刑されるなど藩が危機を迎えていた時も、帰藩せず但馬出石に潜伏し政局を見守った。こうしたことから「逃げの小五郎」とあだ名される。乞食になったり、結婚して(!)商人になったりと、何もそこまで…というほどの念の入れようであるが、そのかいあって幕府・新撰組から逃れることができたのである。

『逃げの小五郎』というあだ名ばかりが先行し、なんとなく腰抜け・卑怯者のごときイメージを持っている人も多いようだ。または、あまりに事を成し遂げすぎたのか、黒い策略家のようなイメージをもたれていたり… イケメンだし活躍したにもかかわらず人気がイマイチな理由はそのへんだろうと思う。しかし、命を狙われながら中心人物として活動し続け大業を成し遂げた彼が腰抜けであろうはずもないし、真実のない人物であれば多くの人物の信頼を得ることもできなかったはずだ。
松陰は晋作の「男子の死ぬべきところはどこか」という問いに「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あら ばいつでも生くべし。」(この言葉は個人的に大好き)と答えたが、小五郎の「逃げ」は、まさに“生きて大業”を行わんがための逃げであると思う。

今年の大河ドラマ「八重の桜」にも登場する木戸孝允。どんな風に描かれるのか、どんな風に演じてくれるのか。ドラマとともに期待している。

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