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吉田家菩提寺・泉福寺~松陰位牌、妹の写真も

2015年の大河ドラマが吉田松陰の妹“文”の生涯を描く『花燃ゆ』に決まった。

このニュースを聞いてあらためて行ってきたのが、浜崎町にある『泉福寺』。あまり知られていないが実はこのお寺、吉田家の菩提寺である。

泉福寺には150年以上前の松陰先生の位牌が現存するほか、本堂の壁面には松陰先生の親の代から現在に至るまでの家系図が掛けられている。そしてその上に、ゆかりの人々の写真が―そう、文の写真も―掲げられているのだ。正確には晩年なので名前は杉 文ではなく楫取美和子ということになるが、いずれにしても他ではあまり写真を見ないのでこちらで拝見しようと思ったわけだ。

内部の写真も撮りたかったのでお断りを入れたところ、奥様がわざわざお茶まで出して色々と説明をしてくださった(恐縮;)。

文さんの話は長くなるので別の回にすることにして、今回は泉福寺のことをご紹介しておきたい。

 

潮音山 泉福寺(ちょうおんざん せんぷくじ)の開基(寺を創立した)玄修は、広島の高田にある毛利家ゆかりの寺・高林坊の第四世・西願の三男である。玄修自身は東原村(現在の広島市安佐南区)・泉福寺の八世であったが、毛利氏が関ヶ原の戦いに敗れ萩へ封じられることになった際、先祖が毛利家に厚い恩を受けたことから輝元にお供して萩に入ったという。はじめ慶長18年(1613)に橋本町に開基したが度重なる洪水に悩まされたため、願い出て正保元年(1644)に現在の地・浜崎町に寺地を拝領して堂宇を建立した。宗派は浄土真宗本願寺派。

ちなみに勤王僧として知られる月性(げっしょう)はこの寺の第十世・大敬(たいきょう)の甥にあたる。久坂玄瑞の20歳上の兄・玄機の友人でもあり、親兄弟を亡くした玄瑞を親身になって世話した。玄瑞に吉田松陰のもとで学ぶことを勧めたひとりでもある。


寺の建物は慶安の大火(1648)で焼失したり、その後破損したりで再建されているが、ご本尊の阿弥陀如来は昔のままのものだそうだ。日頃はたいした信仰心も持ち合わせていない自分でも、松陰先生やご家族も手を合わされた仏様の前となると神妙な心持ちになるものだ。

奥様に促され、松陰先生の御位牌も拝ませていただいた。本堂の左手奥の位牌堂、その突き当たりに松陰先生の御位牌が納められていた。さすがにこちらは撮影を遠慮したが、そこには松陰先生の遺言だという「松陰二十一回猛士」の文字が刻まれていた。今置かれているものはレプリカだが、毎年5月に開催される「浜崎伝建おたから博物館」の時には実物の御位牌が公開されている。

屋根に「チビです」と書いてあったので「チビ~」と呼んでみたが出てこない。後で写真を見たら「My name is Milky」と書いてあった。ごめんねミルキーちゃん…

大河のニュース以降、すでにお寺への来訪者が増えているとのこと。「宣伝はしてないんですけど、どこからか皆さん見つけて来てくださるんですね」と奥様。「私ができるうちは、せっかくだからなるだけお話ししてあげたい」と、文さんのほかにも吉田家や杉家の家系の様々な人物について話してくださった。松陰の兄・杉民冶の孫で長く大阪商工会議所の会頭を務め、日本貿易振興機構(ジェトロ)を創設するなど戦後の経済界をリードした杉道助氏と先代ご住職(奥様のお父上)は懇意で、道助氏からかねがね『男の子が生まれたら私が預かっていいところを世話してあげよう』と言われていたそうだが、「つまらないことに女の子の私しか生まれなかったのよ」と笑っていらした。

まだまだ穴場的なスポットである泉福寺だが、これからますます来訪者が増えることだろう。奥様にもご無理をなさらずお元気で活躍していただきたい。

 

■潮音山 泉福寺
所在地:萩市浜崎町266番地(浜崎1区)
隣接する店々の建物より少しひっこんでいるのでちょっと分かりにくいかも。隣の前浜ミシンショップが目印。この数件となりに駐車場も完備。

 

 

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