カテゴリ「歴史」に投稿された記事

毛利家の正月儀式は昭和まで続いていた?!

家臣:「殿、今年はいかが!」

殿様:「いや、時期尚早じゃ」

 

萩城では正月の儀式としてこんな挨拶が行われていたという。毎年新しい年を迎える度に「今年は徳川を討つべきか」と倒幕の機をうかがう、そんなやりとりだ。書いてあるものによって文句が違うものの、大筋同じような話をあちらこちらで見かける。このページをご覧の方なら一度は見聞きしたことがあるのではないだろうか。

 

関ヶ原の戦いの際、毛利輝元は西軍の総大将となったが戦わず、一族の吉川も東軍に通じ“毛利の領地を保証する”という約束を家康の側近から得ていた。ところが、いざ西軍が破れると家康は約束を反故にし、毛利は領地を中国八カ国120万石から防長二州(周防すおう・長門ながと)30万石(当時)に減らされ、さらに新しい領主たちに 既に徴収していた年貢の返還を迫られて困窮家臣の大リストラを余儀なくされ、息子は人質にとられ、城は萩という不便なほぼ沼の僻地に追いやられ、家臣たちは家禄を五分の一に減らされ、お取り潰しに戦々恐々―

 

 そんな散々な目に遭わされた毛利とその家臣には「徳川憎し」「この恨み忘れまじ」の思いが根強く残り、冒頭の儀式が代々受け継がれた。そしてその怨念がついに倒幕を成し遂げるのだ!

 …ってな話を初めて聞いた頃は「260年って、どんだけ執念深いんじゃ!(驚)」とちょっぴり引きそうになったものだが、考えてみれば同じような境遇の薩摩でも「260年の怨念を晴らした」と言われているし、他にも「藩士は江戸に足を向けて寝ていた」なんて言い伝えもある。当時の家や主君を思う気持ちは、現代人からは想像もつかないほど強いのかも知れない。

 

ところで、この話について17代(萩初代から数えてます)当主毛利元敬氏は「俗説」と仰っているようだ。氏は昭和5年に東京高輪にあった旧長州藩邸(現品川プリンスホテルのところですな)で生まれ、庭で凧揚げ(!)やスキー(!!)をして育ったそうだが、氏が経験していた正月の儀式は、冒頭とは違うものだったらしい。

 

書生:「出城が攻められました!」
一族:「こうしてはおれん!救援に行くぞ!(屠蘇を水盃に換える)
書生:「無事撃退しました!」
一族:「そうか、それはめでたい。祝杯じゃ!」

(※内容に沿ってセリフは勝手に付けさせて頂きました)

 

もともとこんな儀式だったものが、脚色により冒頭のような怨念話となって伝わったのか、はたまたやはり本当に冒頭の儀式が幕末まで続いていて、見事倒幕を成し遂げた後に祝杯の儀式に変わったのか…

いずれにしても、藩主の家柄ならではの興味深い正月の儀式である。

カテゴリー: 歴史   タグ:   この投稿のパーマリンク

コメントは受け付けていません。