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大河ドラマ「花燃ゆ」 第一回市民講座②

さて、肝心の演題「松陰先生とその妹たち」についての講義覚え書き(←この覚えがアテにならないんですけど)。

講義資料のほかNHKの報道用資料、世界遺産パンフ、萩幕末維新検定のチラシなど。高杉晋作没後150周年記念クリアファイル(右上)入り。

この日の配布資料はA4ヨコ×3ページ。その他、NHKの報道資料や幕末維新検定のチラシなど。

 

【P1】レジュメ、講師紹介、家系図、妹たちの略歴
<家系図>杉百合之助・滝夫妻、子/長男・梅太郎(民冶)、次男・虎之助(松陰)、長女・千代、次女・寿、三女・艶、四女・文、三男・敏三郎、+文のはじめの夫・久坂玄瑞、後の夫・楫取素彦(かとりもとひこ)

※女子の名に「子」がついたりつかなかったりするのはどちらでもよい。

 

 <妹たちの略歴(→のちの名前)>
◆長女:千代<ちよ>→児玉芳子

民冶、松陰、千代は2歳ずつ違いと年も近く、大変仲が良かった。天保14年(1843)12歳の時、父・百合之助が百人中間頭兼盗賊改方(警察署長のようなもの)に任じられた際、家族で唯一、父に伴われて萩城中に住んだ。松陰が投獄された際は獄まで食べ物や布団を運ぶなどよく気遣った。晩年、松陰や杉家の話をいろいろ伝え遺してくれている。ことあるごとに松陰からの手紙を読み返しては涙を流したという。享年93歳。

◆次女:寿<ひさ>→楫取寿子
15歳で10歳年上の楫取素彦と結婚。国事に奔走する素彦を身の危険を冒しながらも支えた(桂小五郎を支える幾松のような存在)。信仰心厚く、素彦について住んだ三隅村二条窪で小堂を建て法話を開いて村民を教え諭し、素彦が県令として赴任した群馬でも、県内各地の説教所開設に尽力した。享年43歳。

◆三女:艶<つや> 3歳で夭逝

◆四女:<ふみ>→久坂子→楫取美和子(かとりみわこ)
天保14年(1843)生まれ(45年の説もあり)。15歳の安政4年(1857)12月に久坂玄瑞と結婚するも、玄瑞は翌年2月には江戸へ遊学。以降も攘夷運動のリーダーとして奔走し、元治元年(1864)に禁門の変で玄瑞と死別したため、ほとんど夫婦らしい日々はなかった。最後の藩主14代元徳の奥・安子に仕え、また嗣子・元昭(興丸)の守り役に抜擢される。子供に恵まれなかったため、玄瑞が生前に養子に迎えた楫取素彦と寿の次男・久米二郎を久坂家の跡取りとして養育。が、玄瑞の子だという秀次郎が名乗り出て、藩もこれを認知したため、後に久米二郎は楫取家に戻る。明治14年(1881)、姉・寿子が逝去し、明治16年素彦と再婚。母親や周囲のすすめと言われているが、寿子が病床の間、群馬県令として多忙な素彦の身の回りの世話などをしていたことが最近の研究でわかってきたので、自然な流れだったのではないか。群馬県令として産業や教育の発展に尽力、また、群馬を去った後も貴族院議委員や皇女・貞宮の養育主任など公務で多忙だった素彦を支えた。享年79歳。

 

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