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金子重輔 旧宅地・墓地

金子重輔(かねこしげのすけ。重之助、じゅうすけとも。)は、吉田松陰とともに下田から黒船に乗り込んで海外密航しようとし、収監された獄内で病死した、松陰の同志である。松陰誕生地に立つ松陰銅像のそばにも、傍らには重輔が跪いている。 

花燃ゆ第5回「志の果て」では、獄中で病に冒されながらも松陰と目指した未来を最期まで夢見続ける重輔を、泉澤祐希さんが演じた。どんな思いで松陰と行動を共にし、どんな風に亡くなっていったのか・・・ 金子重輔という一人の青年が、確かに思いをもって生きたことが感じられ、哀しくも心打たれた。
若手俳優に詳しい方ではないが、昨年NHKで放送された「東京が戦場になった日」というドラマで泉澤さんが演じた年少消防官・高木徳男が強く印象に残っていて、この人が演じるなら重輔もこれまでになく注目されるだろうと思った。ちなみに重輔の母・ツル役だった麻生祐未さんは、「東京が」では後(現代)の高木徳男の娘を演じている。

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金子重輔は天保2(1831)、阿武郡紫福(しぶき)村という萩郊外の山間部で生まれ、幼い頃に父・茂左衛門が萩の上五間町に移り住んで染物業を営んだが、重輔は他家を継いで足 軽となった。江戸に出て毛利藩邸に小者として住み込み、鳥山新三郎が主宰する蒼龍軒塾で勉学に励んでいた。
その頃吉田松陰は、
外国船へ乗り込もうと長崎へ赴いていた。重輔も追おうとするが追いつかず江戸へ戻り、松陰が目的を果たせず嘉永6年(1853)暮れに蒼龍軒塾に戻ると、帰ってきた松陰に「弟子にしてくれ」と願い出たという。松陰は「友人」という言葉を使っているが、実質的にはこうして重輔が初めての弟子となった。松陰24歳、重輔23歳の時である。

嘉永7年(1854)、二人はアメリカへ密航することを決意。327日の夜、下田に碇泊していたアメリカの軍艦に乗り込んだ。しかし必死の訴えも虚しく、二人は浜へ送り返され、密航は失敗に終わった。
当時海外密航は国禁を破る大罪だった。が、にもかかわらず幕府の判決が蟄居と謹慎という寛大な処分だったのは、二人の命を懸けた行動に心を動かされたペリーが、幕府に処分について配慮を申し入れたためだと言われている。

萩へ護送されるまで江戸の伝馬町獄へ投じられた二人だが、松陰は武士の身分が入れられる揚屋だったのに対し、重輔は雑居房の百姓牢へ入れられ、病にかかってしまう。萩への護送中も重輔に対しての処遇はひどいもので、松陰は医者に診せることや薬などを要求したが許されなかった。
萩へ帰り着いた後も、松陰は士分者用の野山獄に、重輔は向かいにある庶民用の岩倉獄に入れられた。岩倉獄の劣悪な環境の中、重輔の病状はますます悪化した。


安政2(1855)111日、重輔は獄中で25歳で息を引き取った。松陰が重輔の死を知ったのはその2日後だったという。翌日から松陰は自分の食事から汁と菜を削ってわずかな金を蓄え、これを重輔の遺族に贈った。

保福寺にある重輔の墓には「寄附吉田氏」と刻まれた一対の花立が残っている。 

 

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■金子重輔旧宅地
萩市上五間町(かみごけんまち)

34.41402,131.399805

■岩倉獄跡/金子重輔君絶命之処碑/獄中聞渋木生赴碑
萩市今古萩(いまふるはぎ)

34.41402,131.399808

■金子重輔墓
萩市北古萩(きたふるはぎ)/保福寺 内

34.416923,131.400084

 

 

 

34.41403,131.399809
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